南薫造記念館を訪れてわかった南薫造の郷里への思い~瀬戸内の美しさ~

美術館

こんにちは。大人のおしゃれ塾、田中です。

もう5か月も前になってしましましたが、3月10日、以前から行きたかった呉市安浦町の「南薫造記念館」に行ってきました。

呉市安浦町の出身の洋画家「南薫造(みなみくんぞう)」の作品展に行きました
大人のおしゃれ塾、田中です。 今日は秋晴れの気持ちの良い一日でした。 青空を背景に、木々の紅葉が美しいです。 「日本の印象派」と称された南薫造も、きっと、光を受けて輝く樹木のそよぎに心を動かされたことでしょう。 広島県立美術館『秋の所蔵作品...

この間、手術やら療養でブログにするのが遅くなってしましました。

それでは5か月前を思い出しながら写真を見てまいりましょう。お付き合いいただけるとうれしいです。

南薫造記念館

広島県呉市安浦町『南薫造記念館』に到着しました。JR安浦駅から徒歩20分、バスなら5分、駐車場も広くはないですがすぐ側にあります。

南薫造は東京美術学校の教授職にありましたが、昭和18年は退職して、戦局が厳しくなる昭和19年に郷里安浦町に疎開してきました。

居住先は木造の平屋で、土間や仏間、縁側、庭園がある、昔なつかしい戦前の日本家屋です。

記念館入り口にある案内板を見てみましょう。赤い文字(A~E)は私が画像に書き入れたものです。

A…展示コーナー

障子が閉まっていますが開けたら中庭があります。(見てみたかったなぁ)

今は展示用に仕切りが取り払ってありますが、当時は「ふすま」で仕切られていたのではないでしょうか。天井に「鴨居」が残っています。床は今はフローリングになって「敷居」はありません。当時は畳敷きだったのでしょう。

B…座敷

仏間に続いて、座敷、次の間があります。

ここは私が大好きな作品「曝書」の舞台となった場所です。庭の木々もうっそうと茂っています。それにしても虫干し中の本、たくさんありますね~。

C…庭園

私が行った3月10日は大変天気がよく、庭は目が眩むほどのまばゆさでした。そのため写真が白っぽくなってしまいましたが、木々の緑はもっと濃かったです。ただ当時とは庭の様子(作庭)もかなり変わっているのではないでしょうか。

便所後も取り払われ、入館者のための水洗便所が特別展示場の横に設けられています。

昔は「便所」というのは家屋の中でも一番外れの夜行くのが怖いような場所にありました。手洗いの水は「吊り手水(ちょうず)」の水を使用します。「手水鉢」というのもありましたね。

D…アトリエ

南は1950年、安浦に戻ってから6年後に亡くなっています。晩年というには早すぎる死でしたが(65歳)、このアトリエは南自身が設計したそうです。

天井は高く、中央にはシャンデリアが輝いています。このシャンデリアは当時のものではないかもしれませんが、ヨーロッパ(イギリス)留学経験のある南らしい雰囲気のものが選んであります。当時着用していたものとしてはスーツケースやガウン、彩色用具一式などが展示されていました。

制作に疲れた時の憩いのスペースもアトリエのすぐ横に設置されています。

E…和室

茶室のようなこじんまりしたスペースです。

私が行ったときは赤い座布団カバーで温かみのある感じでしたが、夏は白になっているようです。南薫造記念館のツイッターによると「南は,ひんやりとした畳の感触がすきだった」そうです。(南薫造記念館Twitter、2021/08/09より引用)

南薫造記念館のTwitterは頻繁にアップデートされています。

F…収納庫

案内板には「収納庫」となっていますが、実際には「衣装蔵」なっていました。記念館に行ったからこそ見ることができたスポットです。

でもここは夜、怖そうですね~(笑)

南薫造の郷里への思い…瀬戸内の美しさ

さて、最後になりましたが、今回、記念館に行って思ったのは「実際に見てみないとわからないな」ということです。

私が驚き感動したのは、じつは記念館からすぐ近くが海だったことです。南薫造の作品には海をモチーフにしたものが多いですが、ここまで近いとは思っていませんでした。

今でこそ2~300m離れていますが、それは戦後の埋め立てによるもので、ひょっとしたら記念館のすぐ前が海だったのではないでしょうか(あくまでも推測ですが)。

背後にはなだらかな山、目の前には穏やかに広がる瀬戸の海。

美しいの一言に尽きます。南が郷里を愛した理由が身に迫ってわかる気がしました。

今は牡蠣打ち場も港にあって小売りもしてくれるようです。

南薫造の美術展は没後70年(明治16年~昭和25年)ということで、広島県立美術館や東京のステーションギャラリーでも開催されました。

明治から大正にかけて日本画壇での活躍した南薫造。

東京美術学校での後進指導を経て故郷に戻り、「地方文化の向上」を目指そうと自身のアトリエで近作を加えた100余点を公開したりしたそうです。『藝南文化』という冊子も発行しています。

この頃、後に「芸術は爆発だ」の岡本太郎はまだ30代、地元出身でいえば平山郁夫は修道中学生です。時代は大きく動いていきます。

戦後、60歳を目前に故郷に戻った南薫造が、どういった思いでこれから美術(絵画)に向き合おうとしたのか、新しい方向性への模索はあったのかが知りたいところです。